最初の仕事

2015年10月17日 21:31

最初に会社に入社したのは、1988年4月のこと。結構就活は楽な時代で、

4社から内定を頂きました。で、東京での仕事。父が紙の仕事をしていた縁で、

紙流通商社に入りました。「営業マンやるぞ」って。

 

それが配属時に突然、「お客様向けのコンピュータシステム開発」やれと。

正直落胆は大きかったです。10名規模の部署(半分は営業)でした。

そう言えば、代わりに出て行った先輩には、良くしてもらいました。

そして、私がまず覚えたのが、日立オフコンで使われていたRFD・

RPG(ロールプレイングゲームではない!)

でした。その後にCOBOLって、今でも金融系の一部で使っている言語を覚えました。

ただ、先に書いたように入社は1988年。元号が変わり、消費税対応の中で否応無く

スキルを磨きました。そして、外販だからお客さんと世間話する能力は必要でした。

大きいところではスポーツ新聞社。あそこは「ともかく」真面目にやりました。

たとえPG/SEの分際でも「今日の朝刊のネタ」知らなきゃ使えない。その頃は、野球、

競馬、ゴルフと芸能。しかも部数管理やっていたから、伝説の「1988.10.19」

(川崎球場で行われた、近鉄VSロッテのダブルヘッダー)なり「美空ひばり死去」なんて事で

部数は一気に変わる。もちろん、その権限は編集部にある訳ですから決まるのは深夜。

そのため決め打ちをして、部数を日中に作ってました。そして夜間に大事件があれば事後処理。

あと、一部の方はご存知でしょうが、関東地区の場合宅配版(社内用語で実配)と即売版があり、

即売版にはアダルトな記事が入って、宅配にはその面にテレビ番組が入っているのです。

が北海道は一緒。しかも広告主のハードルが(東京の新聞に出ない業種が載っていたり)低い。

広告主マスターに「?」という所がありました。

自信もって言えるのは、この9年間、本当に他のお客さんも含め、一生懸命にやりました。泊まりの

飲み会にも連れてって戴きました。海軍用語で、「全舷」と言うのがあります。それが新聞業界に

残っていました。この意味は、海軍の艦船勤務者は半分は陸に上がり、半分は勤務という意味の

名残。それが年一回だけ全員ではしゃぐ。それを「全舷」と言いいます。今の海自にはあるのか?

ですが。(週末のカレーなら誰でも知っているけど、調べたら新聞業界用語として残っているそう)

これをやるのにベストなのは、私が関係していた頃はペナントレース終了から、年末進行が始まる前。

その他にも、お客さんにお世話になったなぁ。水戸(なぜか2軒)、桜木町、御徒町…なぜか水戸21:45発の

最終「スーパーひたち」には良く乗ったけど、なぜかそれを逃した記憶がありません。

行きは資料まとめて頭で考えて、それからお客さんの工業団地行きバス。いやもっとお客さんはあるけど、

特にメインでやらせてもらった所です。

そうそう、直属の上司はヘッドハンティングされ、新聞社のIT管理へ。

でも、58歳で酒に溺れ自主退社。だそう。何が幸せになるんでしょうか?

嫌だった事も、好きだった事もある会社。懐かしい。

最初に居た会社は、合併「されて」今はありません。もし辞めてなくて居たとして、冷や飯食らいに

ならなかった保証はありません。理由のひとつ。同期(でなくても少し上の世代)が役員になっても

おかしくないのに、なっているのは10歳くらい上。就職先の一体何が幸せか?わかりません。