私が生きて来た道

産まれてから大学まで

2015年10月17日 21:26
生まれは1965年12月31日。 変な日…言われ飽きました。でも扶養は「1人でも一年分だから」と最近は威張ってます。 そして、目黒区立鷹番小学校(徒歩20分)、ちょっと近い目黒区立第八中学校、 私立高輪高校を経て、神奈川大学法学部法律学科へ。 別に法律が好きだった訳でなく、「文系の就職に潰しの利く学部」 大学に入ったけど、 やりたい事は無かった。 友達も少ないし。後半には文科系部活を始めたけど、気が付いたら大学の取得単位は15。 4年で140取らなきゃいけないのに、である。   2年になって、ゼミに入った(当時は第二外国語は義務でないのに、ゼミは義務?だった)。 15単位の中に「憲法

最初の仕事

2015年10月17日 21:31
最初に会社に入社したのは、1988年4月のこと。結構就活は楽な時代で、 4社から内定を頂きました。で、東京での仕事。父が紙の仕事をしていた縁で、 紙流通商社に入りました。「営業マンやるぞ」って。   それが配属時に突然、「お客様向けのコンピュータシステム開発」やれと。 正直落胆は大きかったです。10名規模の部署(半分は営業)でした。 そう言えば、代わりに出て行った先輩には、良くしてもらいました。 そして、私がまず覚えたのが、日立オフコンで使われていたRFD・ RPG(ロールプレイングゲームではない!) でした。その後にCOBOLって、今でも金融系の一部で使っている言語を覚えました。

職員会

2015年10月17日 21:32
最初に居た会社では、同期とは仲が余りよくなかった。というか「面倒な事は私に任せろ」~「パシリ」でした。 場所取りとか「ナントカもおだてりゃ木に上る」と、上手く使われているだけだったし。 そんな中で、「職員会」と言うのがありました。会社に対する給与・賞与の交渉とレクリェーションの担当。 そこで、レク担当になった。「美女と野獣」観劇会、はとバスツアー(3つくらいに分けたり)、あと ディズニーランドチケット配布@現地。 オッサン3人で、「下見」やりました。はい。かなり怪しげだったけどディズニーで夕食(勿論、「ランド」だから 酒は無い)で、確かミッキー型のプリンを食べたのと、男だけで背広着てスプラッシ

東京に戻ってきました。

2015年10月17日 22:21
北海道時代の話は別項に。で、2007年に当然ながら仕事探しました。当時はまだ祖母が 自宅介護だったので、横浜に家を借りた。「横浜市鶴見区矢向」って所でした。みんなに 「そこは横浜じゃない」って言われた。だって最寄り駅は、川崎から1駅の南武線尻手駅。 労働者の匂いがする街。   それで東京に戻って最初にやった仕事が「SES営業」。前に書いた「IT技術者派遣」。 上司が元通信キャリア出身で(後から聞いたら出世コース外れたらしい)人材の パイプがあるらしい。 で、新参者だから新規開拓。アポ取り、面談、人材探しにハローワークや 職業訓練校に。勿論、新参者が入れる余地は少なかったし、北海道から

介護という仕事

2015年10月17日 22:24
ここから一気に2009年末から、11年までの二年間の話に飛びます。 ていうか、二年勤めたので、話はいろいろあります。私は、樋口了一さんの「手紙~親愛なる子供たちへ」 という歌に出会い、「自分が子供の頃してもらった事を、老いた親にしてやって欲しい」という歌詞に共感し (8分の歌をそこまで凝縮するな(:_;)) と思い、介護の道を選びました。そして、今は「『1/6の夢旅人』の樋口さん」と同じ位、 「『手紙』の樋口さん」は大きくなっています。   それはともかく、最初に資格を取りたかったので、「介護ヘルパー2級」講習に参加。参加者は20名 だった。結構、大学生からシングルマザー、もう社会を

介護と言う仕事ー2

2015年10月17日 22:25
でも施設はそうは行かない。個人のスピードが、評価に反映する。まず私が勤めた 施設の規模を紹介します。 10床で1ユニット*10ユニットの特養、あと短期(最大1月)のショートステイが 3ユニット、とグループホームが9床*2ユニットの138床と、ディサービスが 30人か40人定員だったと思います。   勤務はA勤(7:00~16:00) B勤(8:30~17:30)=主に日勤 C勤(13:00~22:00) D勤(22:00~7:00)の夜勤でした。(業界の大半は15時~翌9時等のの16時間勤務あり) ちなみに、何故か公休はF勤。   但し、当然ご利用者様の状態引継ぎや、夜勤の

介護と言う仕事ー3

2015年10月17日 22:26
介護職を辞めされられた時、ナースさんは「育てるのが上司の仕事だろ、どうせ新人育てる方が (文句も言わないし)楽じゃないか」とか、あるいは、私の周りの経験者(有資格者)は、「私の 技術不足は絶対に無い」…後で知ったが、もっと未熟な人はいたらしい… でも、組織だから従った。樋口さんや藤村か~ちゃんへ言った責任もある。 「ここで辞めるわけにはいかない」と、介護職の代わりに在庫等の管理をさせる、 その人材が居なかった…という理由とも聞きました。   そこで施設長とヤセて小さい、30ちょいかなぁの係長の下で、働き出しました。 ともかく、消耗品の量が半端でない。まあ、介護技術やら節約志向があれば

施設を辞めて…

2015年10月17日 22:32
会社に入りました。「我々はベンチャーだ」が合言葉の、ネットワークカメラの会社。 ところが昼間はひたすらアポ取り。アポを取ってから訪問、まではいい。 毎日、終業後はメンテナンス。理念、と言うか計画性が無い。 アポ取りは楽しかったけどね。   そりゃ、攻撃性は強いし、アポ取りは上手。更に某大手マンション会社の工事現場の カメラ設定(毎週建築中なので、変わるから)とかは結果を出しました。 (あの会社は、設計から杭打ちまで記録しているから、「建築偽装」は出来ない!) 当然、夜遅くまでいるのは、能率が悪い。と言うか集中力が落ちる。 それに面倒なのは、社長と代表が違うと言う事。で、カメラを使っ

今の仕事

2015年10月18日 20:54
webコーディングを中心とした、データ作成をしています。勤怠には甘いけど、後は 厳しくやっています。…自分は障「害」者じゃないと思っている。でも、どんなに 頑張っても給料は上がらない。旅行はおいておくにしても、母は「終活」に 勤しんでいる。観劇も、今のペースを壊したくない…グッズ含め月1万円がMax。 置いておいた旅行も、4月以降は減らすつもりでいる。あとは沖縄と残してしまった (注;ジェットスターの変更可能分)北海道行きだけは行くけど…   次回契約改定で障害者手当や失業給付と、会社からの報酬アップの結果、現状の枠組みが 崩れるため止む無く、辞めるかもとは覚悟しています。仕事が合わ
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